これまでの私に誇りを、これからは私が主役。SHIRUSHIに込めた、私の想い

誰かになる必要はありません。これまで生きてきた自分自身に、すでに価値がある。私は、そのことを伝えたくてジュエリー「SHIRUSHI」をつくりました。

使っているのは、機械の中で何かを支える工業用のバネ。普段は人の目に触れない部品です。でも見方を変え、使い方を変えることで、そのバネが身につける人を輝かせるジュエリーの主役になる。

家族のため、子どものため、仕事のために自分を後回しにしてきた女性にも同じことを伝えたいのです。

誰かを支えてきた時間も、迷った時間も、全部が今のあなたをつくっている。その人生に誇りを持って、これからは自分自身を主役にしてほしい。

私自身も、かつては自分の中にある価値に気づけずにいました。

キラリスペクト創設者/植田由貴子

町工場を営む家庭に生まれ育つ。デザイナーとして20年以上活動、NYで自身の作品を出展・販売した経験から、「まだ知られていない価値を世の中に届けること」の可能性を実感。結婚・出産・子育てを経て、自身の日常体験にも価値があることに気づく。

「日の目を浴びない存在に光を当てる」を理念に、製造業の技術とデザインを掛け合わせた商品開発や、新たな挑戦を支援する活動を展開。

私のルーツは工場にある

私がものごころついた頃から、家の横には父が営む小さな工場がありました。父と伯父が経営する、ものづくりの会社です。

毎日、夜遅くまで機械の音が鳴っていて、母は毎晩遅くまで内職をしていました。小学生の頃は、私も工場の仕事を手伝いました。

でも、当時の私にとって工場の仕事は、正直つまらないものでした。

友達と家で遊んでいると、作業服を着た父が突然入ってくる。それがなんだか恥ずかしくて、友達の家みたいな「普通の家」に憧れていました。

父はいわゆる、昭和の頑固親父。父が右と言えば、家族全員が右を向く。家の中では絶対的な存在でした。でも、とにかく家族を大切にする人でした。
祖父はお酒に溺れ、父は貧しい幼少期を過ごしたと聞いています。その反動もあったのか「自分は威厳のある父親でありたい」という思いが強かったのかもしれません。プライドが高く、酒豪で、ヘビースモーカー。子どもの頃の私は、世の中の男の人はみんな父のようなものだと思っていました。

一方で、父の周りにはいつも人がいました。
学校から帰れば、工場の従業員のおじさんたちが「おかえり」と言ってくれる。工場のみんなでBBQをすることもありました。そんなふうに、工場は生活の一部だったのです。

父は海が大好きで、ヨットに乗っていました。夏休みには、家族で淡路島へ行く。フェリーなら2時間ほどで行ける場所へ、ヨットで6時間かけて向かうのです。船酔いをする私は嫌でしかたなかった。「普通の旅行」がしたい、いつもそう思っていました。

冬になればバスを借り、友人や親戚の家族を集めてスキーツアー。いつも「やろう」と言い出すのは父でした。
家では怖い父親でしたが、誰からも慕われるリーダーのような人でもありました。

今、私は新しいことへの挑戦を「冒険」と呼んでいます。振り返ってみれば、いつしか父の生き方を準えているのかもしれません。

〜父の工場が、ある日突然なくなった〜

私が20歳になる頃、伯父が急死し、まもなく家の横にあった会社が倒産しました。自宅横の工場のシャッターには「差押え」の紙が貼られ、鍵がかけられたのです。昨日まで当たり前に入れた場所に、突然入れなくなりました。大人の事情があったことは後で知りました。その後、父は借金を背負い会社を去ることになります。

1998年。まだ中国が現在のような経済成長を遂げる前、父は中国へ渡り、田舎の廃校になった小学校を買い取って工場を始めました。

20歳になったばかりの私は、初めての海外旅行として父の工場に行きました。
薄暗い上海の空港。立っている兵隊、舗装されていない道。その先に、古い建物がありました。父の工場でした。

遠くから出稼ぎに来た中国人の従業員の方たちが、寒く冷たい土間のような場所で、白い湯気を立てながら昼食を食べていました。
恵まれた国、環境で育った私は、今すぐ日本へ帰りたくなるほど、その光景にカルチャーショックを受けました。

そんな私に父は、日本から持ってきた一台の機械を誇らしそうに見せたのです。

「こいつが俺と一緒に中国へ渡ってきたんや」そのときの父の堂々とした顔を、私は今でも覚えています。

会社がなくなった。借金もあった。私の弟はまだ学生でした。当時の父は、今の私とそれほど変わらない年齢、どんな精神力だったのだろう。今になって、そう思います。

その後、父の事業は中国の経済成長とともに広がりました。

しかし、事業が軌道に乗った頃、胃がんが見つかります。

私達たちは自立し、中国の事業は、父が息子のように可愛がっていた中国人の従業員へ譲られました。

父は治療ではなく、自宅で最期を迎えることを選びました。余命を知っていた父は、仕事を整理し、財産を分け、お世話になった方々に、挨拶をしに会いに行っていました。
まるでこれから旅行へ出かけるかのように。人はこうして旅立つのだと「死に方」を教わった気がします。

その頃、父が私に腕時計をくれました。男性用の、私の腕には少し大きな時計です。今でもその時計は、私の一生の宝物です。

それは、もはや時間を知るための道具ではありません。

何をやっても背中を押してくれた父。
自営業の道を選んだ私と夜な夜な仕事の話をした父。
いつも応援してくれた父。

そして、何があっても自分の人生を自分で選び、前へ進んだ父の生き方。
それを忘れないための、私のお守りであり私である「しるし」です。

何者でもない私が、ニューヨークで認められた

父の工場とは違う道へ行きたかった私は、デザインの世界へ進みました。

会社員としてデザイナーをしていたとき、有給休暇を取ってニューヨークへ行きました。そこで、街のエネルギーに圧倒さたんです。特に衝撃を受けたのが、アートギャラリーでした。自由な作品の数々を見て、「こんなに自由に表現していいんだ」と思いました。それまでの私は、会社という組織の中で、決められた条件に従って、与えられたものをつくるデザイナーでした。自分の作品に、自分で価値をつけたことなどありません。でも、「私もつくってみたい」と思ったのです。

その後、ニューヨークで開催されるグループ展を探し、人生で初めて自分の作品をつくりました。何をつくってもいい。誰からの指示もない、値段さえ自分で決める。
それは自由で、楽しいものでした。

初めてのニューヨークでのギャラリー出展で、自分の作品が売れました。私にとっては、激震が走るような出来事でした。
私は有名なデザイナーでもない。
輝かしい実績があるわけでもない。ニューヨークでは、ただの外国人です。それでも、目の前の作品を見て、知らない誰かが「これがいい」と選び、購入してくださった。

そのとき、初めて知りました。肩書きや実績がなくても、目の前にある価値そのものを見てもらえることがある。良いものは、良いと評価してもらえる。そして、私の中にも世の中に出していいものがある。そう思えるようになりました。
翌年もニューヨークへ行きました。作品は売れませんでしたが、もっと大切なことに気づきました。

私は作品をつくりたいだけではない。この街で、何かを起こしたい。自分のブランドをつくり、世界で販売してみたい。その目標が生まれたことが、現在の会社を始める理由のひとつになりました。

結婚と出産で人生が変わった

結婚するまでの私は、自由に生きていました。自分で働いて稼ぎ、海外へ行き、会いたい人に会いに行く。仕事も順調でした。

ところが、結婚し、子どもが生まれると生活は一変しました。すべてが子ども最優先。散らかった部屋で子どもを寝かしつけ、そこから仕事を始める。夜中、疲れと睡魔に襲われながら、クリエイティブとはほど遠い状態で、ただ制作作業をこなす。そんな毎日でした。一方で、周りの女性たちは活躍している。どんどん自分だけが置いていかれるような気持ちになりました。

「私だって、もっとできるはずなのに」
「こんな生活で、クリエイティブな仕事なんてできるわけがない」
「ニューヨークで自分のブランドを展開するなんて、もう無理だ」

私は次第に卑屈になっていきました。その不満を夫にぶつけたとき、夫から言われました。

「今の君だからできることがあるんじゃないか?」

仕事をしてきた。出産もした。子育てもしている。「今の私だからできること」って?

目から鱗でした。私はずっと、自分に「なくなったもの」ばかりを見ていました。でも、今の私だからできることがある。そう考えるようになりました。

〜女性であることが、価値になる〜

そんな頃、娘の保育園でお母さんたちがつくったものを目にするようになりました。

ものすごく手の込んだ鞄。上靴に描かれた、かわいいイラスト。すごいな、と思うと同時に「これが『手先が器用なお母さん』だけで終わってしまうのは、もったいない」

と思いました。お母さんたちの中には、まだ世の中に出ていない能力がたくさんあるのではないか。

私なら、その隠れた力を見つけ、カタチにして世の中に出せるかもしれない。「女性の感性をもっと世の中に活かしたい」そう考えるようになりました。

そんなある日、一件の依頼が来ました。

主婦向けの商品開発の仕事でした。「子育て経験のあるデザイナーさんにお願いしたい」とのことで、私のSNSを見て連絡を下さったのです。そしてこんな言葉を頂きました。

「この仕事を考えた時、植田さんの顔が浮かんだんです」

本当に嬉しかったです。輝かしい実績ではなく、私自身を選んでくれた。
仕事をしてきた私、結婚した私、出産した私、子育てしている私。それまで自分では「足かせ」だと思っていた経験まで含めて「今の植田由貴子」に価値を見つけてもらえた。まるで、自分の中に埋もれていた価値を誰かに見つけてもらったような感覚でした。

そこから、私の日常の見え方が変わりました。現実は何も変わっていません。

保育園の送迎、子どもの世話、買い物をする、家事をする、仕事をする・・。同じ毎日です。

でも、それまで「仕事ができない理由」のように思っていた日常が全部、今の私をつくっている経験だと思えるようになった。毎日の景色が明るくなりました。心がワクワクしました。
変わったのは、環境ではありません。私が、私を見る目でした。

誰かが自分の中にある価値を見つけてくれたことで、それまで歩いてきた人生そのものを肯定できるようになったのです。

そして、もう一度「工場」と出会った

デザイン会社として独立した私は、あるとき製造業の経営者と出会いました。話の中で、「実は、私の家も工場だったんです」と言うと、一気に話が盛り上がりました。

その瞬間、子どもの頃は少し恥ずかしいと思っていた家の横の工場や、作業服姿の父が、急に誇らしく思えました。そして気づいたのです。

私は、工場の人たちを知っている。

幼い頃から父と一緒にいて、工場で働くおじさんたちを見てきた。職人気質なところも、不器用なところも、ものづくりへの誇りも。

だからなのか、男性の多い製造業の中にも不思議と入っていくことができました。そこに、女性として、母として、生活者として培ってきた感性が加わった。

つくる側の気持ちと、使う側の感性。技術と、デザイン。私は、その間に立つことができる。それが、私だからできることなのではないかと思うようになりました。

製造業の方々と話していると、よく耳にする言葉があります。

「下請けだけでは、この先やっていけない」

技術がある、設備がある、何十年も積み重ねてきたノウハウがある。でも、自分たちの名前でその価値を世の中へ届ける方法がわからない。

その気持ちは、私にもよくわかります。私たちもデザイン会社として、広告代理店や企業から依頼されたものをつくる下請けの仕事を長く経験してきたからです。

ものづくり企業には、ものをつくる力があります。でも、「誰に売るのか」「どんな商品にするのか」「どんな価値として伝えるのか」という企画やデザインに人や時間、お金を割くことが難しい会社も多い。やったことがないから、一歩を踏み出すのも怖い。その気持ちも、自分で商品をつくってみて初めてわかりました。

誰に聞けばいいのかわからない。これで合っているのかわからない。本当に売れるのかわからない。そんなとき一番力になったのは、すでに経験している経営者の先輩方でした。

「こんな方法もあるよ」その一言で、次の一歩が見えることがありました。だから今度は、私自身が経験する側になろうと思いました。

そして、自分が歩いた道を、次に挑戦する人へ渡したいのです。「こんな道もあるよ」と。

父の工場を、新しいカタチで再スタート

現在、父が遺した工場をリノベーションし、「チャレンジ工場」として展開しています。
子どもの頃、家の横にあった父の工場。毎日、機械の音が鳴り響き、夜遅くまで働く父や母、工場のおじさんたちの姿がありました。

あの頃の私は、工場の仕事がつまらなくて、作業服姿の父を少し恥ずかしく思っていました。まさか、大人になった私が、再びこの工場に戻ってくるなんて。

ものをつくる楽しさ。

人が集まる喜び。

そして、何歳になっても新しいことに挑戦する生き方。

私は私なりのカタチで受け継いでいるのだと思います。

かつては恥ずかしいとさえ思っていた、あの工場。

今では、私にとって何よりも大切な場所になりました。

〜「やってみたいな」を、実現する場所〜

父が遺してくれたものづくりの環境と、私たちが培ってきたデザインの経験。

それらを掛け合わせて、新しいアイデアをカタチにする場所です。

そんな仲間との出会いから、「キラリスペクト」は生まれました。

父の工場では、ものづくりをする人たちが働いていました。

今、私の工場では、ものづくりをする人だけでなく、さまざまな人が出会い、新しい挑戦が生まれています。

父と私では、やっていることは違います。でも振り返ってみれば、父もいつも新しいことに挑戦し、周囲の人を巻き込んで、何かを始める人でした。

夏にはヨットで海へ出て、冬には仲間を集めてスキーへ行く。

会社が倒産しても、今度は中国へ渡って工場を始めた。

そんな父の姿を、私はずっと見てきました。
父が遺してくれたのは、工場という建物だけではなかったのかもしれません。

〜私の原点は、ここにある〜

父のものづくりへの想いも、私のデザインの経験も、これまで出会ってきた仲間も。

すべてが、この工場につながっています。

そして、ここからまた新しい冒険が始まっています。

そして「SHIRUSHI」が生まれた

チャレンジ工場に集まる仲間たちと、ものづくり企業の技術や可能性について語り合う中で、私にはひとつの想いがありました。

素晴らしい技術を持ちながら、下請けとして表に出ることの少ない町工場。

その技術を、もっと違うカタチで世の中に届けられないだろうか。

新しい設備や技術を手に入れなくても、今あるものの見方を変えることで、新しい価値を生み出せるのではないか。

そして、それを誰かに提案するだけではなく、私自身が挑戦してみたい。

そうして生まれたのが、工業用バネを使ったジュエリーブランド「SHIRUSHI」です。

SHIRUSHIで使っているのは、工業用のバネです。バネ業界の中で見れば、それはただの「バネ」です。機械の中に入り、何かを支えるための部品。普通なら、表舞台には出ません。

でも私は、「この美しい形を何かに生かせないか」「女性が身につけたら、美しいんじゃないか」と思いました。

新しい設備を導入するわけでも、新しい技術を開発するわけでもありません。すでにある技術を、違う角度から見ただけ。

使い方を変える。届ける相手を変える。そこに企画とデザインを掛け合わせるだけで、機械の中に隠れていた部品が、ジュエリーの主役になる。

私はSHIRUSHIを通して、ものづくり企業の長年培ってきた技術や経験、その中に眠る、まだ知られていない価値を見つけ、デザインの力で光を当てていきたいのです。

これまでの私に誇りを、これからは私が主役

SHIRUSHIを届けたいのは、これまで自分を後回しにして、誰かのために頑張ってきた女性です。

家族のため、子どものため、仕事のため。気づけばいつも自分は後回しだった。でも、それは「自分の人生を生きてこなかった」ということではありません。

その時間も、迷った時間も、誰かを支えた時間も、全部が今の自分をつくっている。私自身が、それを知ったからです。

だからSHIRUSHIを身につけることで「これが私」だと、自分自身をリスペクトしてほしい。誰かになる必要はありません。これまで生きてきた自分自身に、すでに価値がある。

考えてみれば、私がずっと惹かれてきたものには共通点があります。下請けとして、表に出ることなく技術を磨いてきた製造業。

家族や誰かのために、自分を後回しにして頑張ってきた女性。機械の中で、何かを支える一部として働いてきた工業部品。

そして、私自身。

誰かのためにデザインをし、誰かを輝かせることに一生懸命だった。でも本当は、私自身も光を浴びたかった。私も主役になりたかった。だから今は思います。もう、脇役でいなくていい。これまで脇役だった時間を否定する必要もありません。その時間があったから、今の価値がある。

これまでの私に誇りを、これからは私が主役。

町工場も、女性も、バネも、そして私自身も。

ニューヨークで、何者でもなかった私の作品を誰かが見つけてくれました。子育て中には、自分では価値だと思っていなかった経験を誰かが見つけてくれました。

だから今度は、私が見つける側になりたい。まだ本人さえ気づいていない価値。長い間積み重ねてきた技術。

当たり前すぎて、価値だと思われていない経験。それを見つけカタチにし、世の中へ出す。

私にとってデザインとは、新しいものをつくることだけではありません。すでにそこにある価値を見つけ、主役にすること。

そして私は、誰かに「冒険してみよう」と言うだけではなく、自分自身も冒険し続けたい。かつて何者でもなかった私が作品を抱えてニューヨークへ行ったように、

今度は、日本のものづくりの技術と、私自身の人生から生まれたSHIRUSHIを持って、もう一度、世界へ挑戦したい。

知らないことを躊躇うより、初めてを楽しむ。自分の人生の主役として、次の冒険へ進んでいきます。